ｃ 「陸軍恤兵部発行」
1
重く地を這う川音が
やぶ茨の濃緑を潜り抜けて
取り巻く山並みの瘴気のように
釜無川原に覆いかかる
巨大ケヤキの三叉路の
冬陽が暗い空に
色あせたネムの房実が下がっている
2
『陸軍恤兵部発行』と印刷された
「２銭」の「郵便はがき」と切手不要の「往復航空軍事郵便」の束が
この冬八十六歳で死んだ叔母の家で発見された
戦死した夫の便りの一切を
叔母は戦後の五十六年
二人の子供にも見せることなく仕舞っていた
３
山梨県東八代郡黒駒村駒止
栃谷雷三郎様方
氷川直子様
千葉市
東部第八十六部隊カカ隊
氷川幸男
―一部抹消―
有難う存じました。その後非常に元気です。
一番心配した腸の具合も誠に良好で、間食をしないので却って地方に居る時より具合のよいのです。夜分は不眠症もなくぐっすりとねむり、起床になる?も殆んど熟睡いたします。此処に居て一番心配の事は留守宅の和男の事ですが如何でせうか。風邪気味であったので。
お見送り戴いた皆様や御餞別を戴いた皆様にも、全部お礼状も出したいですが何分多忙で失礼して居るので、お逢いの折りには宜敷くお礼申して置いて下さい。尚、此処に居る期間は未定ですが、返信は出来る限り避けて下さい。折角返信を頂いても私の許へ届かない様な場合が多いです。尚末筆乍ら御両親始め皆様に宜敷くお世話願います。
山梨県東八代郡黒駒村駒止
栃谷雷三郎様方
氷川直子様
ビルマ派遣森五八九四部隊川田隊（オ）
氷川幸雄
十月三日
九月の末頃から、やっと内地の便りが届く様になった。四月頃の櫻の便りを十月の秋の酣の頃読んで居ます。筆不精ではあるが内地の便り欲しさに、時折書いてゐる。過日は珍しく五通も届いた。日暮里から出した薬も、愛子の手紙と共に雄太郎兄の手紙が一緒に入ってゐた。余り手紙など書かない人なのに特に私の為に手紙を送って呉れたので実に嬉しかった。十月に入ってからそろそろ乾季になって亦暑い日光の直射を受ける様になった。内地のススキに似た様な草が南国の太陽に照らされて銀色に光ってゐる。芸術写真を思い出したが戦地に居ては其んな呑気な事は出来そうもない。九月の末に千葉の八十六部隊で写した面会日の写真が届きました。和男が目が丸いので、こんなに丸かったかと思いました。
高島勇君、伊藤君、忠義様御夫妻より別々に便りを頂きました。内地の便りが一番よい慰問品です。ドシドシお願いします。
第二十八信目。皆様に宜敷く。
（裏面より）雄太郎兄の許では田舎へ疎開した様な御話を岩内の叔母から聞いたがやはり黒駒でせうか。折角手紙を頂いたので返事を出そうと思っても疎開した後では手紙も届きませんので心配している。東京へ独り残された酒井の処では淋しい様だ。時々には便りをして下さい。亦―不明―人達とも連絡を取って下さい。
和男も智子も元気で育つ様に祈ってゐる。
山梨県東八代郡黒駒村駒留
栃谷雷三郎様方
氷川直子様
ビルマ派遣森五八九四部隊川田隊
氷川幸男
十一月二日
ビルマも本格的乾季になって来ました。これからはビルマの冬です。然し、冬と言っても夜が涼しい位のもので日中は真夏です。内地から度々と便りが来るので今は内地も必勝の意気を以って増産に生産力拡充に戦ってゐる事が判ります。其の結果が過日の台湾沖の大戦果を作り、亦今度比島のレイテ湾の戦果となった事でせう。
サイパン玉砕以来大戦果を待っていた処、今度の大戦果が続いて心から万歳を叫んでゐる処、内地から直子、すゑ子さんと子供らの写真が届き、和男にも、始めて見た智子にも対面した訳で喜びの二重奏です。和男が随分大きくなって見違いて仕舞ひました。顔が幾分変わった様です。顔も腕もよく肥えて農村の恩恵を充分にかうむってゐます。智子は丸い顔をして和男の小さい時とそっくりです。左の目が少し小さいのまでよく似ているので驚いたぐらいです。私もこんな元気な子供等が内地に居るので元気に御奉公出来ると思います。若し直子が希望するならば子供達のために徴兵保険と嫁入保険にでも入れて置いて下さい。すゑ子さんも元気な御様子遥かにビルマで喜んでゐます。愛子から二回も雑誌を送っていただいて有難う。戦友たちも喜んで読んでゐます。尚、過日、智子の家族手当を始めて貰ったので其の侭送金して置きました。来月から当地で智子の家族手当のみ貰らふ事になるのです。 では亦、御両親に宜敷く。第三十一信目
山梨県東八代郡黒駒村駒止
栃谷雷三郎様方
氷川直子様
ビルマ派遣森五八九四部隊川田隊（オ）
氷川幸男
十二月十五日
子供が学校へ行ってゐる戦友の許には習字や綴方図画が送られて来る。其れを他の戦友に見ても貰らふのも亦楽しみな事らしい。自分の許にはよく写真が来る。直子から三回も送られて来たが亦、新潟へ疎開した岩内の叔母からは田植え風景を現した農村の写真が送られて来た。広々とした越後平野に叔母さんも一番端に靴下を履いて「ヒル」を防いで田植えをしている写真が届きました。其れと一緒に―不明―ちゃん、叔母さん、茂樹さんなど幾枚も届けてくれました。戦友も内地のスゲ笠などを見て、すっかり郷里に想を走らせてゐる事でせう此の便りと一緒に込山宇三郎君の許から便りが参り彼氏、今度改姓したそうです。住所は左記の通りだからお祝いの印でも送って貰いたい。（神奈川県足柄下郡片浦村府川九十二広枝宇三郎様)
ではたのむ。 第三十五信
山梨県東八代郡黒駒村駒留
栃谷雷三郎様方
氷川直子殿
ビルマ派遣森五八九四部隊川田隊牧田隊
氷川和男
二月三日
相変わらずの乾季で毎日快晴の快い日を送って居ります。今度此の航空郵便が配給になり、普通郵便よりも早く届いて返事が早く来るそうです。内地の皆様は如何ですか。お元気でせうか。私も此処へ来て美味しいものを沢山食べて居りますので却って肥えた様です。和男も、田舎の姉ちゃん達と、毎日元気で遊んでいる事と遥かに想像を致して居ります。もうお父さんの事など忘れているでせうね。出産後の事など種々と案じてゐるが早速ご返事下さい。過日大木勝之君にお願いして金弐百円ほど送金致しましたが、直子の出産費と、田舎の御両親始め皆様、子供達に美味いものでも買って頂き度いと思います。日暮里では其の後如何でせうか。便りは有るでせうか。若し便りがあったら、私の無事に働いて居る事を御通知願ひます。尚鉄道からは預金其の他の残金は届いているでせうか。軍の方から頂いた給料なども受取証を確り保存して置いて下さい。私の友人たちにも時々は連絡して、私の無事に居る事を知らせて下さい。尚此のはがきより早くはがきは出して置きましたが此のはがきの方が先に着くのではないかと思います。この便りの返事を直ぐにお願い致します。和男や其の他の写真もたのみます。
山梨県東八代郡黒駒村駒留
栃谷雷三郎様方
氷川直子様
ビルマ派遣森第五八九四部隊川田隊
氷川幸雄
一月十八日
新年お目出度う。久しく内地の便りも書かなかった。お正月も内地は敵機のお見舞いを受けてゐるので随分緊張してゐる事だろう。お年寄りは相変わらずお元気でせうか。和男も智子も随分大きくなった事だろう。
お父様にも「オッパイアルノ」と問ふてゐる和男の気持ちは随分ゐぢらしいものです。然し自分もお蔭様には誠に元気で新年を迎えてゐる。新年早々に手紙を書こうと思い乍ら毎日の仕事に追われてゐて手紙を書いて居られません。友人達にも失礼をしてゐる。過日込山宇三郎君より便りを頂いた。彼は今度改姓してゐる。お祝いを送って貰い度い。渡辺五作君、成岡、高島皆んな元気で居るだろうがお互いに便りはあんまり来ない様です。今の自分は余りにも遠隔地に来ているので無理のない事です。智子は近頃は歩ける様になったでせうか。女の児だからなかなか生いきを言っているでせう。
込山君の住所は、神奈川県足柄下郡片浦村根フ川九二の五広枝宇三郎君、右の様な処です。では皆々様お元気で敢闘してください。第三八信
4
若い夫婦が理不尽な力に
海を渡る外国の戦地と
島国の谷間の村とに切り裂かれ
そのまま
ついに再び会うことはなかった
子供は兄四歳、妹二歳で終戦
叔母は郷里の村で
寡婦を守り
日銭を得て子供を育て
一日一日を生き抜いた
5
水嵩が減って
冷たい石が現れた釜無の水面を低く
影の色の川鵜の集団が
小魚を絶滅させて
薄墨の滲むように
もうすぐそこへ遡ってくる
ふたたび「恤兵部発行」はがきの支給を企んで
すでに濃い冬が漂う気配の
白い風の川原疎林を窺がっている
※恤（じゅつ）〓あわれんで（救済のために）金品を与える。